自分の生き方やこれからの進路に迷った時に、様々な思いをめぐらすことの表現として「自分探し」という言葉があります。この言葉は、冷静に考えてみると、とても不思議な言葉で、自分とは、探すまでもなく、今、現に存在しているのにもかかわらず、その自分を探すのです。
私たちが、この「自分探し」をするのは、たいていの場合、今の生活に不満がある時や、この先の進路に不安を抱えている時などでしょう。そう考えますと、この言葉には、自分自身にとって、自分がもっともかわいい存在(自分に執着する存在)であるにも関わらず、その自分に満足出来ずに悩む思いが込められているように感じます。
仏教においては、この悩みを生み出す原因を、三つの「髻(モトドリ)」という事柄で、具体的に教えてくださっています。その三つとは、
一つ目は、「名聞(ミョウモン)」------名誉を求める心
二つ目は、「利養(リヨウ)」-----------自分の利益を追い求める心
三つ目は、「勝他(ショウタ)」--------他人に勝ろうとする心
です。これら三つの心に執着するがゆえに、私たちは、自分に満足することが出来ず、思い悩むのです。なぜなら、この世の中は「諸行無常(ショギョウムジョウ)という言葉が示すように、常に、一定に止まることなく、常に変化しているからです。
地位や名誉は、時間が経てば色あせます。いくらお金を持っていても、使う気力や機会がなければ意味がありません。年を取り体力が落ちれば、いずれ、若い者に先を越されるでしょう。「三つの髻」に執着し、それを自分の生きる頼りにしていても、それは、臨終の最後まですえとおらないのです。
だからこそ、私たちは、仏法(仏教のおしえ)を指標として、「三つの髻(モトドリ)」に左右されない、確かな自分(自己)を探し求める必要があるのだと思います。そして、その歩みを「聞法(モンポウ)」と言うのだと思います。
このたびの新型コロナウイルスの感染拡大は、世界全体に大きな影響を及ぼし、終息後の社会では、大きな価値観の変化をもたらすことが予想されております。こんな時だからこそ、「確かな自己」の確立向けて歩み出すことが、よりいっそう重要なのだと感じます。
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