コロナ渦の時だからこそ味わいたい御文(おふみ)~疫癘(えきれい)の御文~

 疫癘(えきれい)の御文(第四帖九通)一四九二年六月

 当時このごろ、ことのほかに疫癘(えきれい)とて ひと死去(しきょ)す。これ さらに疫癘(えきれい)によりてはじめて死(し)するにはあらず。生まれ はじめしよりして さだまれる定業(じょうごう)なり。さのみ ふかく おどろくまじきことなり。

しかれども、いまの時分(じぶん)にあたりて死去(しきょ)するときは、さも ありぬべきように みな ひと おもえり。これ まことに道理ぞかし。

このゆえに、阿弥陀如来の おおせられけるようは、「末代の凡夫、罪業のわれらたらんもの、つみは いかほどふかくとも、われを一心に たのまん衆生をば、かならず すくうべし」と おおせられたり。

 かかる時は いよいよ阿弥陀仏を ふかく たのみまいらせて、極楽に往生すべしと おもいとりて、一向一心に弥陀を とうときことと、うたがうこころ つゆ・ちり ほども もつまじきことなり。

 かくのごとく こころえのうえには、ねても さめても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と もうすは、かようにやすく たすけまします、御ありがたさ、御うれしさ を、もうす御礼のこころなり。これを すなわち 仏(ぶつ)恩(とん)報謝(ほうしゃ)の念仏とは もうすなり。あなかしこ、あなかしこ。


【試訳】

 近頃、多くの人が伝染病にかかって命を落としています。しかし、人間というものは、伝染病が原因で死んでいくものではありません。人間は生まれたときから必ず死んでいく「いのち」を生きているのであり、それが道理なのです。(病は死のきっかけにすぎません)

 そうとは言え、今、このように多くの人が亡くなりますと、きっと様々なたたりや前世の行いによって、伝染病が流行し、人間は死ぬのだというように人は思うものです。

 阿弥陀如来は、「末世の凡夫や罪業の私たちの罪がどれほど深くとも、如来を一心にたのむ衆生を、必ず救う」と誓われました。このような時こそ、いよいよ阿弥陀如来を深くたのみ、お浄土に往生できると信じ、一心に阿弥陀如来を尊び、疑うこころを露(つゆ)塵(ちり)ほども持つべきものではありません。

 このように心得たうえに、寝ても覚めても「南無阿弥陀仏」と称えるお念仏こそ、私たちを必ず救いとってくださる如来のありがたさ、うれしさの心から湧き出るお念仏なのです。これをすなわち仏恩報謝(ブットンホウシャ)の念仏というのです。


◎【解説①】「疫癘(えきれい)の御文」が書かれた背景

 この御文は、蓮如上人78才の時に書かれたお手紙です。当時、伝染病が流行し、多くの方が命を落としました。現代のように科学が発達した時代ではありませんので、当時の人々は、そのような事態が起きる原因を、たたりや日柄などだと考える人々が多かったようです。現に、この御文が書かれた年の7月に元号が切り替わります(延徳→明応)が、その理由は、伝染病の流行であったとも言われています。

 そのような世の中の考え方に対し、蓮如上人は「生まれ はじめしよりして さだまれる定業なり」(人間は生まれたときから必ず死んでいく「いのち」を生きているのです)とういう、道理をまず説きます。


◎【解説②】蓮如上人から私たちへのメッセージ

 前半において、人の「いのち」の道理を説いたあと、後半では、阿弥陀如来の本願の趣旨を解説したのち、「阿弥陀仏をふかくたのみまいらせて」や「弥陀を とうときことと、うたがうこころ つゆ・ちり ほども もつまじきことなり」と語り、お念仏の教えをとおして、如来(真実/本当のこと)に目覚めていくことをすすめるのです。

 何か、この御文の前半部分と後半部分では、一見すると、文章の内容がつながっていないように感じるのですが、そこに、蓮如上人から私たちへのメッセージが込められています。

 お念仏の教えにおける困難との向き合い方について、有名な法語に

 仏教は都合よく生きられたら幸せだ という夢から覚める教えです。

 仏教は不安を取り除くのではなく、 不安に立つ教えです。

という言葉があります。

 この法語の「不安に立つ」とは、「自分の心にある不安を受け止め、不安を受け止めることをとおして、その事から学び、真実に触れていく歩み」という意味です。

 昨今の新型コロナウイルスの脅威は、国の「緊急事態宣言」が解除されても今なお、私たちの生活に多くの不安をもたらしています。感染症への有効な手段が確立していないなか、「この先、世の中はどうなるのだろう」とか「もっと感染が広がるのでは?」という不安は払拭できません。研究が進み、新しいワクチンや薬が開発されるまでは、おそらくこの不安は常につきまとうだろうと思います。

 そのようななかにおいて、蓮如上人が、この御文において、最初に人間としての道理(人間は、生まれたからには、必ずいつか死を迎える)を語った後に、不安を取り除く方法を示すのではなく、念仏を申し、如来の真実に目覚めることをすすめるのは、「不安に立つ」道を示すことこそが、お念仏の教えとしての救いであると受け止められたからだと思います。

 そして、最後にお念仏の教えにしたがい、実践し、歩む者から発せられる「南無阿弥陀仏」というお念仏こそ、感謝(仏恩報謝)の感情から湧き出るお念仏だと語るのです。

皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~