信心とは、自分の起こすものではなく、“たまわる”ものである

 一般的に、「信心」とは、私達が信じる心を「信心」と言うと解釈されます。しかし、お念仏の教えにおいての「信心」とは、一般的な理解のとは少し違い、仏法(お説教)を聞くことによって得た、新たな気づきや発見を「信心」と言います。

 このお念仏の教えの「信心」について、親鸞聖人は、


「信心」というは すなわち本願力回向の 信心なり

【試訳】お念仏の教えにおける「信心」とは、私達が、阿弥陀仏の救いを信じる心でなく、阿弥陀仏の真実のはたらき(本願力)からたまわった(回向)心を言うのである。


と教え、導いてくださっている言葉です。この言葉によれば、お念仏の教えにおける信心とは、阿弥陀仏の真実のはたらきからたまわった心(本願力回向の信心)であると教えてくださっています。

 よく考えてみると、私達は、自分に何を信じるか、何を信じないかを選ぶ能力があり、また決定する自由があるのだと思い込んでいます。しかし、そのような心によって作り上げた信心は、本当のよりどころとはならず、自分の都合で変わり、また状況によって崩れていきます。

 一方、親鸞聖人の語るお念仏の教えの「信心」とは、「回向(エコウ)」という言葉があるように、“たまわる”ものとして表現されています。ここには、私たちの心に生じるけれども、私たちの心から生まれたものではないという感覚が含まれています。

 この感覚には、人間は、常に周りに影響を受けて生きる者であり、そのような私達には、自分自身で本当のよりどころとなるものを見出すことは困難であるという見方が含まれています。

 だからこそ、私たちは、本当のよりどころを求めて、仏法(仏教の教え)に身をゆだねながら、私たちの普段のくらしを見つめ直す(振り返る)時間が大切なのだと思います。

 なぜなら、仏法は、約二五〇〇年にわたり、それぞれの時代の人々が、人間の存在を探求し続けてきた英知(すぐれた智慧)の結晶が含まれているものだからです。その仏法に身をゆだねることこそが、本当のよりどころに近づく道であると思います。


皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~