私たち人間の習性?それは何でも区別するということ

  書家にして、詩人でもあった相田みつをさんの言葉に

『損か?得か?人間のものさし。うそか?まことか?仏さまのものさし』

という言葉があります。私たちは日常の生活において、何かと区別することが大好きです。「損か?得か?」だけでなく、「善し・悪し」や「できた・できない」「勝った・負けた」など日常においてあらゆるものを区別しながら生活しております。

 ただ、この誰もが無意識に行っている区別は、仏教では、あまり良い考え方としてとらえいないようです。なぜならば、区別は、時として、差別や分断を生み出し、そのことによって争いの種にもなりかねないからです。また、人間の判断は、絶対ではなく、時代や生活する場所が変われば、区別の仕方もまた変わってしまうからです。

 有名な仏教用語に「諸行無常(ショギョウムジョウ)」という言葉があります。この言葉は、「あらゆるものは、常に移り変わり、とどまることがない」という世の中の事実を言い表した言葉です。「諸行無常」であるがゆえに、また私たちの区別する判断も移り変わり、絶対ではないのです。

 そんな状況や環境により変化する世の中を生きている私たちは、いったい何をよりどころに生きていけばよいのだろうか?その答えを先にご紹介した相田みつをさんの言葉で言えば『うそか?まことか?』の『仏さまのものさし』をよりどころにせよということなのでしょう。

 ”まこと“とは、いつの時代でも。何処でも変わらないことを、”まこと“と言います。あらゆるものが常に変化しているこの世の中において、はたして”まこと“と言えるものがあるのだろうか?なかなか思い当たらないのではなかろうか?

 けれども、一つだけ変わらないことがある。それは、人間は誰しもが、多くのはたらきに支えられながら、生活が成り立っているという身の事実。これは、いつの時代でも、何処に住んでいる人も共通する ”まこと“ではないか!

 その”まこと“を肝に命じつつ、私自身の考え方をよしとせず、「これで良いのだろうか?」と常に問うていくこと。それが仏法のお話しを聞き、学ぶということなのだと思います。そのことは、表現を変えれば、生き方を学ぶということにほかならないとも思います。


皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~