お経によく出てくる「光」という漢字の持つ意味とは?

 お経や親鸞聖人の言葉に親しんでいると、「光」という漢字が多用されていることに気づきます。私達に親しみのある『正信偈』の中においても、「光」という文字は多く使われています。それほど、仏教において「光」と言う文字は大切な意味を持つ言葉なのでしょう。

 「光」という言葉は、普段、日常においては、太陽の光や蛍光灯の光といったように、身の回りを明るくするはたらきを意味する言葉として使われます。しかし、仏教の教えの世界においては、”明るくするはたらき“というよりも、むしろ「私自身を支えているさまざまなはたらき」を意味する言葉として表現されます。

 私達の生きざまは、目に見えない多くのはたらきに支えられて生活が成り立っております。身近なところで、食事をすること一つ取ってみても、それは、動物や植物の”いのち“をいただきながら生活しております。ということは、動物や植物の支えがあって生活が成り立っているとも言えます。それ以外にも、親や兄弟、友達、近所の方、親戚の方、さまざまな人のお世話になって日常の生活が成り立っております。

 私達は、気づいているか、いないかに関わらず、身の事実として、多くのものに支えられて生きているのです。その私たちの生活を支えているはたらきのすべてを象徴的に仏教では、「光」と表現しているのです。

 お経の中に「光」という言葉が多用されるということは、私自身を支えているはたらきに気づいていくということが、とても重要であるということです。なぜならば、そのことは、私自身の存在をそままに肯定し、応援してくれる存在を感じ、生きる活力が与えてくれるものだからです。

 お寺に参り、なぜ、教えを聞かなきゃならないのか?それは、教えを聞くことをとおして、自分自身を支えているはたらきに気づいていくこと。それが同時に、そのことから、普段の生活に生きる活力をいただいてくためではないかと思います。

皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~