「自分」って実は、分かったようで、分からない存在ではないか?

  最近よく聞くフレーズに「個性を尊重する」という言葉があります。このフレーズのいう「個性」とは、言い換えるならば「その人らしさ」という意味でしょうか?相手の特長に敬意を示し、お互いの価値観を認め合うという意味の言葉が「個性を尊重する」というフレーズなのだと思います。

 そのこと自体すばらしいことであり、何も異論をはさむ余地はありませんが、ただ一つ思う事は「そもそも、自分の個性って何?」と自分のことを問うた時に、明確に答えられる人がどれだけいるのだろうか?ということです。自分以外の他人については、あれこれ言うことは出来ますが、自分自身について、自分でどうとらえるかということになると、とても難しいことではないかと思います。
その難しさについて、仏教における人間のとらえ方を聞くとその理由に納得できるように思います。

 仏教では、私たち人間を「業縁存在(ゴウエンソンザイ)」といい、私たちは「縁」と表現されるあらゆるものとの関係性を常に持ちながら存在する者と考えます。現に、親・兄弟や夫婦・子ども、近所の人など、あらゆる関係の中で生活しております。人間関係だけでなく、食事をいただくことをとっても、動物や植物の”いのち“をいただきながら生活しています。身の回りにあげたらキリのないほどの関係性の中で私の生活は成り立っているのです。そのような存在を「業縁存在」と言うのです。

 私たちの存在が「業縁存在」ということは、言い換えるならば、常に周りに影響を受けながら、常に変化しながら存在しているとも言えます。常に変化しているのであるから、「自分の個性って何?」と問うても、明確に答えられなくて当然です。なぜなら、常に変化しているものを表現することはとても難しいですから。

 そんな私たち人間の特長をふまえ、仏教学者である金子大榮氏の残された

『念仏をはなれて 仏もなく 自分もない 』

という言葉を聞くと、仏教の奥深さを味わうことが出来るのではないかと思います。

 この言葉で言う”念仏“という言葉を、ただ口に「南無阿弥陀仏」と申すととらえるのでなく、”自分を支えてくれているさまざまなはたらき“ととらえるならば、そのはたらきがなければ、業縁存在である私もという存在も成り立たないということです。

 だからこそ、「お念仏をはなれて  自分もない 」と語られるのでしょう。


皆福寺

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