なぜ、仏教では、人が亡くなることを「お浄土へかえる」というのだろうか?

 仏教を学んでいると、仏教の教えならではの独特な表現が数多くあることを実感いたします。その一つに、人がお亡くなりになることを

「お浄土へかえる(還る)」

と表現する言い方があります。なぜ、単純にお浄土へ「行く」と言わずに、「かえる」と表現するのでしょうか?そこに、「お浄土」という言葉を私たちが、どう受け止めていくのかということの意味が込められているのではないかと思います。

 一般的に「かえる」という言葉を聞くと、どのような場所をイメージするでしょうか?おそらく、自分の住んでいる「家」であったり、「家族のもと」などということを連想する方が多いのではないかと思います。そして、その場所は、言葉を変えていうなれば、自分の居場所であり、自分が安心できる場所ではないかと思います。つまり、私たちが「かえる」と聞いてイメージすることは、自分の心が最も安らぐ場所であります。

 そのことをふまえて、あらためて、では、なぜ「浄土」はかえる(還る)」と表現されるかを考えてみると、「浄土」とは、ただ単に、「仏さまの国」だとか、「亡くなったら行く場所」ということにとどまらず、心が最も安らぐ居場所と受け止めるべき言葉のでないかと思います。大切な人が亡くなった時、その現実をどう受け止めるのか?その受け止めに、亡き人がもっとも安心できる、自分の居場所へ行かれたのだという受け止めが「お浄土へかえる(還る)」との表現には込められていると思います。

 このことは、残された私たちにとっては、「本当に心が安らぐとはどういうことか分かりますか?」と、亡き人から質問されているということでもあるかと思います。

 私たちの生きる現実は、誰もが「心が安らぎ」を求めているにもかかわらず、それをぶち壊す「争い」が絶えず、「ねたみ」と「そねみ」の感情がうごめいている世界です。そのような矛盾に満ちた世の中から、明らかになる(分かること)とは何なのか?亡き人を通して、そのことが今を生きる私たちに問われているように思います。


皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~