2018.09.30 08:32「煩悩」を持つ身が、今、考えること 「煩悩(ボンノウ)」と言う言葉を聞くと、こんこんと湧き出る人間の欲望のようなものをイメージされる方も多いかと思います。仏教において、「煩悩」とは、悟りを開くための大きな障害となるもので、長い仏教の歴史の中で、多くの僧侶達が種々分析をしてきました。この分析において、「煩悩」とは、私たちの心身を押さえつけ、「自由」を奪う一面があるとの解釈がなされてきました。 本来、人間は自由であるにも関わらず、「煩悩」があるがゆえに、いろいろなものにとらわれ、不自由を感じ、常にわずらいや悩みを抱えながら生きているのが私たちの姿であるという解釈です。 今の時代は、一昔前に比べ、便利で快適な生活が送れるようになりました。新幹線の誕生やパソコン、インターネット、家電機器等の普及がその象徴的なものでしょう。しかし、便利で快適な生活が送れるようになったからと言って、人間の心は、その分、ゆとりが生まれ、自由になったかと考えると、必ずしもそうでありません。便利なものが普及することによって、世の中の流れは速くなり、色々なものに追われながら生きている私たちの姿があります。 人は、誰でも、便利で快適に、生きたいと願っております。そして、快適の先には、ゆとりが生まれ、本当の安心と自由が待っていると錯覚します。しかしその内実は、時間に追われ、心を縛られ、苦しみ、もだえている現実があります。 『大無量寿経』にはそのような私たちに姿を「心のために走せ使いて、安き時あることなし。田あれば田を憂う。宅あれば宅を憂う。」【試訳】人間は、ひたすら我欲のために心を使い、安らかなる時がない。田んぼがあれば、稲の実りのことで心配し、自宅があれば、維持管理のことで、いろいろと気をつかう。と説かれています。 思えば、『大無量寿経』に説かれる阿弥陀仏誕生の物語では、阿弥陀仏は、もともと国王でしたが、世自在王仏(セジザイオウブツ)という仏にあこがれて仏の道に入ったと説かれます。国の王様で、権力もあり、快適な生活を送る者であっても、本当の自由と安心は得られなかった。だからこそ、「自在」に生きる世自在王仏に魅力を感じ、惹かれていったのでしょう。 「自在」とは、周りの環境が、どんなに不便であっても、心にゆとりがあり、自由なる様を表します。 今年は、例年にくらべ、多くの自然災害が日本各地で起きております。家屋の倒壊はもちろんのこと、停電などのライフラインの破損などに出会った際は、自然の脅威とともに人間の無力さを思い知らされます。 そろそろ、私たちは、便利で快適な生活を第一として求めるのではなく、自分が、自分らしく生きるために、また、違った価値観(ものさし)を持つ事を考える時期に来ているのではないでしょうか? 仏教が誕生して、約二五〇〇年の歴史とは、この、”違った価値観“を追い求め、探究してきた歴史でもあります。その先人の声に真摯に耳を傾け、受け取っていくことこそが、今、求められているように思います。皆福寺創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~フォロー2018.11.03 17:55「おまいりする」という言葉に込められた大切な意味2018.08.31 07:10皆福寺「親子(孫)のつどい」を開催しました!0コメント1000 / 1000投稿
0コメント