お寺でお説教を聞くと、よく登場する言葉として「凡夫(ボンブ)」という言葉があります。この言葉を辞書で調べてみると「①平凡の人」「②愚かな人」という意味の記載があります。つまり、「凡夫」とは、「平凡で愚かな者である」という意味の言葉です。この「凡夫」という言葉の人間観は、私たちに、どんなことを教えてくれるのでしょうか?
親鸞聖人のお手紙をまとめられた『末燈鈔(マットウショウ)』という書物の中に
「愚者になりて往生す」
(意訳:愚かな者にまでなって、はじめてお浄土の世界が開けるのだ)
という言葉があります。この言葉において注目すべきは「愚者である」と言わずに、「愚者になりて」と、語られていることです。「愚者になりて」とは、「知者(知識を持った者)」が愚者にまでなってお浄土へ往生するという意味です。 言い換えるならば、愚者にまで成長させていただくということでしょうか?
私たちの普段の生活は、ついつい、他人に対して誇れる自分を見出して、それを自分の価値だと勘違いし、そして、自分と違う生き方や考え方をしている他人を評価し、時には非難し、見下ししたりしています。
一方で、私たちは誰しも、他人との心の通ったつながりを求めています。世の中において「孤独死」や「地域の絆」等がたびたび話題になるのもその証拠でしょう。つながりを求めているからこそ、「孤独死」が問題になり、「地域の絆」が話題になるのでしょう。
では、どこで、私たちは、本当のつながりを持つことが出来るのでしょうか?
親鸞聖人は、自分自身を「愚禿(グトク:おろかなハゲ)と名告られました。この「愚禿」の「愚か」という自覚のところにこそ、「愚かなるゆえに聞かせてください」「愚かなるゆえに教えてください」という、自分と違う生き方・考え方の人の話も耳を傾けていける世界が開けるのではないのでしょうか?
親鸞聖人のお書きになられた『一念多念文意』の中に、
「凡夫は すなわち われらなり」
というお言葉があります。この言葉において言えば、「われらなり」の「ら」という一文字に、他人との共通項を見出し、人と人とのつながりが開けてくる世界が実現するという意味が込められていると思います。
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