以前、お寺へお参りに来た小学生に「阿弥陀さまって何者?、人間?、超人?」とたずねられたことがあります。確かに、よく見かける阿弥陀さまは、手もあるし、足もあるし、人間のような形をしています。小学生の子が、素直に「何者?超人?」と疑問に思うのは、素直な気持ちだろうと思った記憶があります。
今でこそ、私たちが御本尊(ゴホンゾン/本当に尊いもの)として仰いでいる阿弥陀さまは、絵像や木像のものが多いのですが、実は、少し前までは、名号(文字で表した阿弥陀さま)が主流でした。現在でも、ご門徒宅へお参りに行くと、お仏壇のお脇に、黒く古めかしい文字の書かれた掛け軸が掛かっているお宅があります。この掛け軸は、おそらく、絵像や木像がそのお宅に迎えられる前に、先祖の方が御本尊として、仰いでおられた阿弥陀さまであろうと思います。
つまり、昔がそうであったように、私たちが普段お参りの際にお参りする阿弥陀さまとは、必ずしも人間のような姿をしているとは限らないのです。
では、阿弥陀さまとは、どのような存在なのでしょうか?
私は、「阿弥陀さま」とは、「ご恩の象徴」としてとらえるべきものであると受け取っています。
私たちが、今まで生きてこられたのは、家族や近所の人、人間のみならず、食べ物となって私を支えてくれる植物や家畜等など、様々なもののおかげ(はたらき)があって、今の自分があります。そのすべての「ご恩の象徴」として阿弥陀さまは存在するのだと思うのです。
小山法城氏の言葉に
「信は如来の生命なり」という言葉があります。このお言葉は、私たちの心の中に湧き上がる自覚(「信」)そのものが、阿弥陀さまの生命(いのち)であるという意味の言葉だと思います。
それは、言い換えれば、私たちのこころと離れて、別に阿弥陀さまはあるのではなく、私の心の中に、ご恩(おかげ)を感じている時、まさにその時こそが、阿弥陀さまが存在している時であるということだと思います。
阿弥陀さまと私たちの心は、不利一体であり、私たちの心とまったく関係なく、別にあるものではないのです。
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