仏の教えは、損か得かというより、ウソかまことかが課題である

 皆さんは、”お念仏“という言葉にどんなイメージをお持ちでしょうか?想像するに一番多い答えは ”「南無阿弥陀仏」と口に称える(トナえる)こと“という回答が一番多く聞かれるのだと思います。確かに、辞書やインターネットで調べても、まず初めにそのような意味の解説があります。

 では、さらに内容を深めて、”何のために「南無阿弥陀仏」と口に称えるのでしょうか? “と問われたら何と回答するでしょう。おそらく、その回答は、答える人が多ければ多いほど実に様々な考え方が聞けるのだと思います。

 なかには、仏教は宗教の一つであるから、「阿弥陀さまに願いをかなえていただくための呪文」という意味の回答をされる方もいるのかもしれません。

 確かに、宗教とは、多く人に「願い事をかなえてくれるもの」という認識があるようです。ですから、宗教という言葉とよくセットで「祈り」という単語がよく使われます。これは、願い事をかなえるためには、神仏に祈りをささげるという行為がつきものだからです。ひょっとしたら、”お念仏“もこの祈りの一環としてとらえて「願いをかなえていただくための呪文」と認識されるのかもしれません。

 しかし、仏教の教えを知ると、どうも仏様の価値観と私たち人間の価値観はずいぶん違うことが分かります。有名な詩人 相田みつをさんの作品に


そん(損)かとく(得)か 人間のものさし うそかまことか 仏様のものさし


という言葉があります。

 どうやら、仏様にとっては、私たちの願い事(損得)より、「うそかまことか」ということの方が重要なようです。そんな仏様に私たちの損得勘定で「祈りをささげても」願いはかなうでしょうか?それよりも、「真実かどうか?」「本当かどうか?」という問いに対して、応えてくれるのがお念仏の教えではないかと思うのです。

皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~