仏教的な視点で考える「不要、不急なこと」とは?

   新型コロナウイルスの流行の際には、「不要、不急の外出は避けましょう」ということがよく言われました。この言葉によって、「不要、不急な事とは何だろう?」と、考えた方も多かったのではないかと思います。

 実は、仏教では、今から約二千五百年も前から、この「不要、不急」について探求し続けている歴史を持っております。お釈迦さまの説法を記録した『大無量寿経』には、

「世人、薄俗(ハクゾク)にして共に不急の事を争う」

(訳:世の中の人は、考えが浅はかで、急ぐ必要のないことをお互い争いあっている)

と言う言葉があります。『大無量寿経』では、この言葉以降、私たちが、ひたすら我欲のために心血を注ぐあまり、心安まる時間の少ない日々を送っている者として説き、展開していきます。
 いったい、私たちが生きるにおいて「本当にしなければならないこと、気づいていかなければいけないこと」とは何なのでしょうか?

 その答えの糸口は、お釈迦さまが指摘する“我欲”を超えたところにあるのかもしれません。我欲にまみれ、離れられない者が、亡き人を“人生の先達者(ほとけ)”として偲ぶこと、あるいは教えを聞くことを通して、我欲を超えた視点で見る眼(マナコ)をいただくこと。それを仏教では、“お参りする”というのだと思います。


皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~