不条理に思える出来事さえも、意味あるものとする仏教の視点

 早いもので、もう10月に入り、今年もあと3ヶ月となりました。新型コロナウイルスの流行は、今まで季節感を感じていた恒例の年中行事をも縮小・中止に追い込み、最近の生活に、季節感が感じられず、時間だけが過ぎていく感覚をお持ちの方もいるのではないかと思います。


 思えば、今年の夏には、一年遅れのオリンピックが無観客ながら開催されました。一生懸命がんばる選手の姿をテレビで観戦しながら、前評判で期待された選手でも、一年の延期が大きく影響し、思うような結果が出なかった選手もあったように感じます。思うような結果が出なかった選手にとっては、「何で今回のオリンピックだけ・・・一年延期に・・・」と自らにふりかかった業(ゴウ)を悔いた選手もいたのではないかと想像します。


 人の生き様には、時として不条理に感じる出来事が襲いかかってきます。多くの人が経験しない壮絶な体験をする方もいますが、そうでなくとも、誰しもが共通して経験する不条理な出来事もあります。それは、「老いていくこと」、「病気をわずらうこと」、そして「死んでいくこと」でしょう。誰もが避けて通りたいと思う出来事であるが、誰しもが必ず経験する不条理な出来事です。


 これらの不条理な出来事を、仏教では、おシャカさまの最初の求道(出家)の動機として語り継がれてきています。そこには、仏教約2500年の歴史が、何を課題として答えを求め、問い続けてきたかが表現されていると思います。


 その事は、仏教とは、人生の不条理(老・病・死)を避けながら生きる生き方(方法)を模索するのではなく、不条理に必ず出会うことを覚悟した上で、この与えられた「いのち」をどう生きぬいていくのか?ということを問う教えだと思います。


 老・病・死という誰もが避けて通りたい不条理な出来事をただ単にイヤなものとせず、自らの人生に問題提起してくれる出来事としてとらえる見方こそが、仏教の視点にもとづく、とても前向きなとらえ方なのだと思います。


皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~