人生を充実したものするか、空しく過ぎる歩みとするかの分岐点とは?

 私たち人間は、生きていればいろいろな出来事を経験しながら生活します。当然、うれしいことや楽しいことも多くありますが、つらかったことや悲しかったことも数多くあります。そのような今までの人生の思い出をあえて、一言で、別の言葉で表すとすれば「人生は、自分の思い通りにならない」ということでしょうか?思いがけない幸運に恵まれた事がある一方で、想像もしなかった困難に出会った経験もある。それらをひっくるめて、「人生は、自分の思い通りにならない」と言えるのではないかと思います。

 そのような現実の中で、自分の人生を充実したものにするのか、あるいは空しく過ぎる歩みとするのかの分岐点は、目の前に起こった出来事をどうとらえて生きるのかという、とらえ方次第ではないかとも思います。

 目の前に起こった困難な出来事を何か別のものに転嫁して(責任をおしつけて)とらえるのか、あるいは、困難な出来事を現実のこととして受け止めて、困難から学び、生かしていく歩みをしようととらえるのかの違いかと思います。

 本願寺派(お西)の僧侶であった、山本仏骨氏は、お亡くなる直前に、病床で次のようにつぶやかれたそうです。


『まあ、どこにおっても お慈悲の中だからのう』


 この言葉のある「慈悲」という言葉は、一般的には、“相手をかわいがり、大切にし、かわいそうに思うこと”という意味の言葉ですが、この法語の“お慈悲の中”という言葉を「様々なはたらきに支えられている身」と言い換えると、この法語の意味がより理解できるのでは、ないかと思います。

 どんな環境の下でも、どんな状況に置おかれても、決して見捨てず、様々なはたらきに支えられている身である。という事を常に感じ続けながら生活することは、困難な状況を困難な状況として受け止る活力を与えられながら生きる事である。その実感を残りいくばくもない人生の時間の中で、実感とともに吐露された一言が山本仏骨の言葉だと思います。

皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~