仏教でいう「欲望」と「願い」の違いとは? そして「願い」に生きることのススメ!

 人は日々の生活の中で、何かしらの、夢や希望などの目標を持って生活しています。“これらの思い”は、私たちの生きる支え(張り合い)にもなっています。しかし、一方で、“これらの思い”は、常に、叶えられるのか、叶えられないのかという結果が求められます。叶えられれば、喜びにあふれ、いのち輝く思いに浸ることができますが、叶えられなければ、失意し、落胆しなければなりません。また、一つの思いが達成したとしても、すぐに次なる目標が見つかればよいですが、見つからない場合は、しばらく無気力感にさいなまれなければなりません。

 そのような私たちに、仏教は、「欲望」と「願い」の違いを教え、「願い」を発見することの大切さを教えてくれます。

「欲望」とは・・・自ら起こしたもの

  (例)夢や希望 「~したい」という感情 等

「願い」とは・・・かけられるもの 

  (例)親の願い 仏さまの願い 等

 仏教でいう「欲望」とは、私自身が起こした思いであり、それには、常に結果が求められ、それを達成するための最適な期間(期限)があります【有限】。

 一方、仏教でいう「願い」とは、自らが起こしたものでなく、常に他者からかけられている思いであり、その思いには、期限はありません【無限】。

 私たちの普段の生活は何かしら「欲望」にまみれているがゆえに、常に喜怒哀楽と希望と絶望を繰り返し、山あり谷ありの日々であります。そんな私たちに、仏教は「願い」に目覚めよと勧めてくれます。言い換えれば、新たに何かを見いだすのでなく、常に私にかけられている「思い」(願い)を再発見し、その願いに生きよということを勧めてくれているのだと思います。

 昨今の新型コロナウイルス感染症の流行は、自粛を強いられ、生活スタイルも一変いたしました。また、今後の先行きや価値観の変化も、全く見通しの立たない状況であります。こんな不透明な時期だからこそ、足元を見つめ、自分にかけられた願いを再発見していく生き方が特に求められているのではないのかと思います。

皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~