昔から『親の心子知らず』という”ことわざ“があります。この”ことわざ“は、親の子を思う気持ちは、なかなか本人に伝わらないことを意味する言葉でありますが、ある意味、仏さまと私たちの関係をも言い表している言葉でもあると思います。
当然のことですが、親は子どもがあってはじめて成立します。子どもがいなければ親も成り立ちません。そう考えますと、親とは、その存在・立場を子どもと共有しているとも言えます。この親子の関係と同じように、仏さまとは、救う対象である私たち(衆生)が存在しなげれば、その意味を失う、「同じ命を共有」している存在なのです。
そして、親子の関係では、親は、我が子の成長を見守り、時にはどのように育てようかと一生懸命になります。しかし、成長していくのは子ども本人であるがゆえ、必ずしも思いどおり育つわけではありません。親としての一生懸命な願いが、かえって子どもを束縛し、親の思いとは異なる方向にむいてしまうこともあります。
お経には、仏さまは、我々すべてを救わんと、常にはたらいてくださっている存在として描かれます。にもかかわらず、私たち(衆生・凡夫の身)は、冒頭でで紹介した”ことわざ“にある親子の関係のように、その事になかなか気づかず、背き続けている存在です。
ただ、そのような存在でも、なかなか気づけない自分にかけられている願いに気づけた時、どのような事が起こるのでしょう?
親鸞聖人は、「信心(シンジン)」という言葉を、仏さまからのはたらきへの気づきであり、自分を見守り、はたらき続けてきた仏のはたらきに感謝するとともに、そのはたらきに背き続けた自分への懺悔(サンゲ)の自覚であるととらえられました。
このことは、私たちひとり一人は、孤独ではなく、常に自分の身を支え続けているはたらきがある。そして、そのことに気づいていく事こそが、人生を生き抜く本当の救いであり、生きる活力の源(ミナモト)となると教えてくれているように思います。
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