楽しいこと、うれしいことなどがあると人生は明るく感じます。逆に苦しいこと、つらいことが続くと人生は暗く感じます。だから、人は苦しみを免れて、楽を求めて生きようとします。
昔にくらべ、最近では、日常生活や仕事の多くは、機械化が進み、便利になり、苦労は軽減されています。しかし、それにもかかわらず、日常の生活において苦しみが減ったように感じられません。技術の進歩や新しい発明によって、便利で快適な生活が実現しても、また、新たな苦しみが生まれます。
このことは、人は、人間の持つ欲求に満足することはないということを示しています。さらには、人間は、楽しみと苦しみを繰り返す生き物であることを示しています。
親鸞聖人は、この楽しみと苦しみを繰り返す世界を「世間」といい、この姿に気づかずに暮らしていることを「闇」であると教えてくださっているように思います。
阿弥陀仏の徳を讃える言葉に「超日月光(ちょうにちがっこう)」という言葉があります。
ここで言う「日月光」とは、人間の生き様を太陽と月の光をたとえて表現したものなのではないでしょうか?太陽と月は、光(希望や楽しみのたとえ)を放ちますが、昇ったり、沈んだりします。つまり、楽しみと苦しみを繰り返す人間の生き様を太陽と月の光にたとえて表現したものが「日月光」なのでしょう。
阿弥陀仏の徳である、「超日月光(日月の光を超える)」とは、「日月光」にたとえられるような私たちの生活の中で見過ごされている、人間の深い闇を照らし出すはたらきが阿弥陀仏の徳であるということです。
我々は、人間の深い闇をうすうす感じてはいるが、これをごまかして生活している。そして、実は誰もが人間が抱えている深い闇を消す明るさを求めています。
「聞法」とは、その課題(人間が抱えている深い闇)を消す明るさを仏法に問いたずねていくこと言うのだと思います。
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