念仏者の人生は まさに 慚愧と歓喜の交錯
上記の法語は、仏法(ブッポウ/仏教の教え)を聞き続けてきた者の日々の感情を率直に表現した言葉だろうと思います。そして、この法語では、その感情を「慚愧(恥じる心)と歓喜(よろこびの心)の交錯(交わる)」であるとお示しいただいております。
私たちの経験をふまえ、この法語を味わうと、どうしても、「恥じる心」と「よろこびの心」とは、まったく反対の気持ちとしてとらえ、その心が、交わって一緒になるという表現は、一見すると矛盾するように思うかもしれません。
ただ、よくよく考えてみると、「恥じる心」とは、本当に生きる道を新たに発見できたからこそ、過去の自分の行動を「恥ずべきことであった」と振り返ることが出来る気持ちです。そう考えますと、この法語にある「慚愧と歓喜が交錯」する気持ちとは、自分の生き方に対して新たな発見できた時に湧き上がる“新鮮な感情”であると受け止めることが出来るのだと思います。
この“新鮮な感情”は、日々の生活の中で、常に自分の歩みを見つめ、振り返ることによって生み出される感情です。念仏者と称される者は、仏法の聞き、自分の人生を常に振り返る習慣の中で、日々新鮮な気持ちを感じながら、退屈することのない、充実した人生を送る者のことを言うのだと思います。
現在の私たちの生活は、新型コロナウイルスの感染防止のために、自粛を強いられる生活が続き、一年が経とうとしております。この間、世の中のしくみが大きく変わり、一時だと思っていた私たちの価値観も大きく変化しようとしております。今後、世の中が大きく変わる中で、一人ひとりが漠然とした不安を抱えながら生活していると言うのが、私たちの正直な気持ちなのではないでしょうか?
こんな時だからこそ、自身の生活を振り返り、今後の生き方について見つめ直すことが特に大切なのではないかと思います。そして、その道しるべとなってくれるものが仏法であると思います。なぜなら、仏法は、約二千五百年の歴史において、人間の生き方を常に問い続けてきた結晶が詰まったものだと思いからです。
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