お念仏を申すことによって助かっていく道とは?

 浄土真宗は、「南無阿弥陀仏」とお念仏を申すことで助かっていく教えであると言われます。しかし、お念仏を申したからと言って、大金が手に入るわけでもなく、病気が治るわけでもない。お念仏で助かるとはとは一体どういうことなのだろう?と素朴に疑問に思います。

 そもそもお念仏とは、何か?ということに関して、お念仏誕生の物語が、親鸞聖人が最も大切にされた『大無量寿経』というお経に書かれております。


 この物語は、まだ、阿弥陀仏の修行時代、名を法蔵菩薩(ホウゾウボサツ)と称 していた頃のお話しです。当時、法蔵菩薩は、世自在王仏(セジザイオウブツ)という仏様の教えしたがい、煩悩に苦しむすべての生ける者をどう救えるかを悩み抜いた末、自分が仏になるための条件として四十八の願いを誓います。その四十八の願(ガン)の中心は、「すべての者に対して、私の名前を呼びなさい(念仏申しなさい)。私の名前を称えた者を、私は一人残らず救い取ります。もし、一人でも取りこぼすことがあれば、私は仏になりません」という内容の願いでありました。この願いを成就し、阿弥陀仏となられていくという内容の物語です。


 このお念仏誕生の物語に込められた大きなメッセージは、阿弥陀仏が、「もし、一人でも取りこぼすことがあれば、私は仏になりません」と誓い、常に煩悩に苦しむ私たちに、寄り添ってくれている存在として語られている点です。

 私たちが自分(自己)を考える時、どうしても、「自分」と「他人」というように、二つに区別して発想します。しかし、よくよく考えてみると、自分とは、他人と別に存在するものでなく、自分を成り立たしめているのは、自分にいろいろな影響を及ぼす多くの人々やさまざまな存在、はたらきがあってはじめて自分というものが成り立っているのではないのでしょうか

 そう考えますと、お念仏誕生の物語で語られる自分に常に「寄り添って」くれている存在に気づく(発見)していくことが、「お念仏を申す」ということに込められた意味ということなのではないでしょうか?

 うれしく思える日も、悲しみにくれる日も、自分の身に起こるすべて事柄に自分(自己)ということを気づかせて(発見)させてくれるきっかけとして受け止めていく道、それがお念仏によって助かっていく道なのだと思います。

皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~