仏様にあいたい これにまさる深い願いが
人間にあるでしょうか
上記の言葉(↑)は、大谷大学の教授であった寺川俊昭先生が、何千年も前に「お経」を本国に伝えた中国の僧侶達の苦労に思いをはせながら語った言葉だそうです。今とは違い、ヒマヤラ山脈のけわしい道と環境の中を、命をかけで旅したその僧侶達の思いは「仏様にあいたい」という強い思いだったのだろうということです。
「仏様にあいたい」という言葉を聞くと、多くの人が頭の中にイメージするのは、仏像や掛け軸に描かれている仏様のお姿でしょう。仏様のお姿が、あまりにも、人間に近いお姿をしているので、なんとなく、私たちはどこか遠くに存在する偉い(すごい)方というような印象があるかと思います。
しかし、ここで先生が語る仏様とは、そのような意味ではなく、”苦しみや悩みを超えていく道(方法)”ととらえても良い言葉に私は思います。インドで生まれた仏教という教えに”苦しみや悩みを超えていく道(方法)”を求めるココロが「仏様にあいたい」という表現になったのだと思います。
そして、この”苦しみや悩みを超えていく道(方法)”を求めるココロこそが、人間の深い願いであると先生は語るのです。このことは、現代を生きる私たちにもよく理解出来る感情ではないでしょうか?人は老若男女、誰でも多かれ少なかれ”苦しみや悩み“を抱えて生きています。そして、出来る事ならその”苦しみや悩み“を解消したいと思っています。けれども、なかなか解消する方法が見つからない。それが私たちの現実の生きざまです。
その課題(苦しみや悩みを超えていく道)を何千年もの間、探求してきた歴史が仏教にはあります。「お経」というのは、何千年の歴史の中で、翻訳を繰り返し表現は変化してきています。綴られる表現は変化してきているけれども、仏教が課題としている”苦しみや悩みを超えていく道(方法)”を求めるココロは、少しも変わっていないのでしょう。いわば、現代に伝わる「お経」とは、”苦しみや悩みを超えていく道(方法)”の何千年の間、その時代の人々が研究を積み重ねてきた結晶のようなものであり、そこに綴られる結晶をいただくことを、聞法(モンポウ/仏教の教えを聞くこと)というのだと思います。
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