「無分別智」と表現される”悟り“の世界が教えてくれること

 仏教の”悟り“の内容を表す表現はいろいろありますが、その中の一つに「無分別智」(ムフンベツチ)という言葉があります。あまり聞きなじみのない言葉かもしれませんが、この言葉の「分別」(フンベツ)という言葉は聞いたことがあるかもしれません。

 一般的に、物事の善悪や道理をわきまえ、正しい見識にもとづいた判断をできる人のことを「分別をわきまえた人」などと言います。

 その「分別」に”無“という文字を付け、物事に区別をつけない智慧という意味の言葉が「無分別智」という言葉なのです。この言葉の背景には、私たちが苦悩を生じるのは、人は誰もが物事を区別し、判断する心を持っているという仏教の基本的な考え方があります。

 私たちの日常においては、意識する・しないに関わらず、物事を深く理解するために、物事を分けて考え、分析し、その特長を把握するということをします。

 その手法をよく利用して発達した学問が「科学」です。「科学」の進化は、私たちに便利で豊かな生活をもたらしました。しかし、その一方で、「科学」という学問は、「良い・悪い」、「役に立つ・立たない」、「出来る・出来ない」などといった仕分けをすることが宿命のようにつきまといます。

 この仕分けが、区別と分断を生じ、区別と分断は、差別と争いを生み出し、私たちの世の中に、さまざまな問題となって苦悩をもたらすのです。ゆえに、仏教では、苦悩とは、物事を区別し、判断する心から生じると考えるのです。

 そして、物事を区別し、判断することをしない世界。それが”悟り“の世界であり、その特長をとらえて「無分別智」と言うのでしょう。

 ただ、私たちは、「無分別智」の世界に入ろうとしても、無意識のうちに、物事を判断し、区別する心を持っています。ゆえになかなか”悟り“の世界にたどり着こうと思ってもたどり着けません。だからこそ、阿弥陀如来という仏様は、そんな私たちの特長を見越して、「念仏申せ」という呼びかけを通じ、私たちには理解出来ない「無分別智」の世界に気づいてもらおうと、常に呼びかけ、活動しているのです。

 その仏さまの活動と呼びかけに、私たち一人ひとりが、耳を傾け、気づいていくことが、今、求められているのだろうと思います。


皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~