明治を生きた宗教哲学者であり、僧侶であった清澤満之(キヨザワマンシ)の残した有名な言葉に、
『生のみが 我らにあらず 死もまた 我らなり』
という言葉があります。ここ言葉を一見すると、あたり前の事を語っているように思いますが、この言葉の「死もまた我らなり」という言葉に、この言葉の深い味わいが込められているように思います。
日頃、私たちの意識では、死は、生の終わりであるととらえています。その証拠に、死を身近に感じる出来事や病気に直面した時には、不安や恐れを感じます。
一方で、清澤氏は、この言葉をとおして、私たちに、死を生の終わりであるととらえているうちは、本当の安らぎは得られないと語ります。なぜなら、それは、死への不安は、生きる事への執着から生じていると考えるからです。
仏教では、私たちの身の回りに起こる出来事を「業縁(ゴウエン)」と言う言葉で表します。この言葉の意味は、すべての出来事は、いろいろな原因と縁が、複合的にからみあって起こるのであり、出来事は、すべて関係しているという意味の言葉です。
この事は、私たちの身の事実においても例外ではなく、私たちは、縁によって生まれ、死にゆく存在です。しかし、私たちの思いは、その事実をよりどころとせず、自分の都合の良いようにとらえます。
ゆえに、生きる事に執着し、生きる事と死ぬ事を分断して考え、その考え方によって、死への恐怖や不安を感じ、自らの都合の良い考え方によって、苦しみを生み出しているのです。
清澤氏の「死もまた我らなり」という言葉は、死とは、生の終わりでなく、生の延長線上にあり、生の内容の一部であると訴えかけている言葉であると思います。
確かに、死によって、人は誰しも、身は白骨となりますが、その身が生きた思い出や言葉は、後生の人々に残り、生き続けます。そのような死生観こそが、私たちの身の事実に基づいたとらえ方ではないかと思います。
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