「信じる」ココロは、 起こすものではなく、与えられるものなのではないか?

 「信じる」ということ。このことは、私たちが生きていくにおいて、とても大切な要素の一つであろうと思います。たとえば、さまざまな人間関係を構築するにおいては、”信頼“という信じるココロが必要不可欠です。また、日常生活を前向きな姿勢で送るには”自信“という自分を信じるココロが大切です。しかし、「信じる」ということは、目に見えないがゆえに、とてもあいまいであり、もろく、時として私たちを悩ませます。裏切りによって、ココロが傷つき、疑心暗鬼におちいり、信じることの難しさに立ちすくむこともあります。

 浄土真宗を宗祖・親鸞聖人というお方は、九才で出家・得度し、十代、二十代の若かりし時期を比叡山にて厳しい修行の中で過ごされました。この時期、親鸞聖人の心の中に常にあったことは、僧侶として、ホトケに仕える者として、今取り組んでいる修行に対して全幅の信頼を持てず、また、自分の生きざまに自信が持てないことであったと伝えられております。そのような経験をふまえ、親鸞聖人は、私たち人間の本当の姿を次のように語られます。

『さるべき業縁のももよおせば、いかなるふるまいもすべし』

【現代語訳】そうなるべき縁が起これば、

どのような振る舞いもしてしまうのが人間なのです。


 確かに、私たちのココロとは、「自分の都合」を優先してしまい、ささいなキッカケで思いは大きく変化し、とてもあてにならないものです。そんなココロを持つ私たち人間に、生きるうえで大切な要素である「信じる」ということが何処で成り立つのでしょうか?

 「信じる」とは、一見すると自分で起こすことのように思うけれども、親鸞聖人が「如来よりたまわりたる信心」と表現するように、みずから起こすココロではなく、その本質は、与えられるものではないか!

 私たちは、その与えられていることに、気づくが気づかないかで、人生の見方・とらえ方が変わっていく。だからこそ、そのことに気づき、確認をするために、仏の法を聞くのだろうと思います。

皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~