誰もが出来て、手に入ることこそが、実は”本当に貴重なコト“ではないか?

一切衆生の 救われる道でなければ 自分は救われない (金子 大榮)

【意訳】みんな(一切衆生)が救われる方法(道)でなければ、私も救われない。

 

 上記の法語には、二つの大切な内容が含まれていると思います。

 まず一つ目は、私たちは、あらゆる”いのち“と常に関係性を持ちながら生きているということです。

 私たちは、人とヒトとの関係だけではなく、周りの自然や動植物ともつながりを持ちながら生きている存在です。そのことは、最近の気候の変化おいても、多くの人が薄々感じていることだろうと思います。今までの経験が通用しない異常な気候が起こることは、私たちの営みとは全く無関係ということではなく、ニュースで二酸化炭素の排出量がたびたび話題になるように、人間の物質文明の急速な進歩も大きく影響しているようです。

 よって、あらゆるモノとの関係性がある以上、私自身が救われるということも、私一人だけが救われるということは成立せず、救われるならば、生きとし生けるモノみんなが救われなければ、私自身の救いも成り立たないという現実を生きているのです。

 次に、二つ目は、「誰もが出来て、手に入る」ことこそが、”本当に貴重なモノ(コト)“ということでなかろうか?ということです。

 一般的に、珍しいモノや体験を”貴重なモノ(コト)“と表現します。例えば、ダイヤモンドや金はナゼ価値があるかと言えば、その辺にある石ころと違い、苦労しなければ手に入らない珍しいモノだから”貴重なモノ“と表現されるのです。

 経験や体験もそうです。コンクールや何かの大会で表彰されたり、メダルを取ることを”貴重な体験“と表現するのは、その成果が、いつでも、誰でも成し遂げられる出来事ではないからこそ、そのように表現されるのです。

 ただ、よくよく考えてみると、本当に”貴重なモノ(コト)“とは、一部の人にしか手に入らないもの以上に、誰一人残らず、みんなが手に入るモノ(コト)の方が世の中には少なく、滅多に見いだすことの出来ない、” 貴重なモノ(コト)“なのではないでしょうか?

 そして、人間における「救い」ということにおいて、誰にでもあてはまる本当に”貴重な“道(方法)を念仏の教えに見いだし、そのことをあきらかにしてくれたのが、親鸞聖人というお方だろうと思います。

皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~