”あう“という漢字を「遇う」と書くお経のこだわり

 お経に書かれている文字をていねいに見ていくと、こだわって、あえて独特な表現を使用していると思われるヶ所が数多くあります。「遇」という漢字もそうでしょう。”あう“という言葉を一般的な「会う」という漢字を使わずに、あえて「遇う」という漢字を使用してあります。そこには、仏教の教えの強いこだわりがあると思います。

 「会う」という漢字は、一般的に人と顔を合わせたりする時などによく使われる漢字です。一方、「遇う」という漢字には、同じ”あう“でも「思いがけずに」という意味が込められているそうです。ただ単に人と顔を合わせたりすることを表現するだけでは「遇う」という漢字は使わないそうです。

 なぜならば、人は無意識のうちに、自分の都合や思いで取捨選択した受け取り方をして、相手と会っているにすぎないからです。どれだけ多くの人と出会い、言葉を交わしても、お互いに自分の言いたいこと言い、自分の聞きたいことを聞いているだけでは、互いに自分の「自我(ジガ)」の範囲内で理解しているにすぎません。そんな心の内側にある「自我」という殻をなかなか破れない私達が自分の範疇(ハンチュウ)にない”思いがけない“ことで、たまたま相手の真意に触れ、印象的な出会いをした際に使う文字が「遇う」という漢字だそうです。

 「遇う」という漢字が表現するような本当に他の人の真意に触れるということはとても難しいことです。毎日顔を見ている家族でも、血のつながった親子でも本当の「出遇い」を経験することは、なかなか困難です。

 よく聞かれる四字熟語に「一期一会」(イチゴイチエ)という言葉があります。「今日、この瞬間の出会いは一生に一度しかないかもしれないから大切にしましょう」という意味の言葉です。仏教で語る「遇う」という漢字は、まさにこの「一期一会」とも言える貴重な出会いを表しているのだと思います。

皆福寺

創建800年 皆福寺 それは、 先人の記憶・思い・願いをとどめる場所 そして、その場所は、 今を生きる私たちの活力を得る場となる ~月に一度は、お寺で心の洗濯を!~