死んだらおしまい?~「死」を想う意味~
科学が発達し、医療技術が進歩した現代では、生命のしくみが遺伝子レベルで解明され、現代人の生命観も「私のいのちは、死んだらおしまい」という考え方が広まってきているように思えます。
一方、親鸞聖人の生きた時代、人々は生前中に多くの修行をし、それを功績として臨終の際に阿弥陀仏にお迎えいただき、お浄土へ往生しよう(生まれよう)と願いました。【※このことを「臨終来迎」と言います】
このことは、当時の人々が、現代人と違い、「いのち」を生(セイ)のみとしてとらえるのでなく、死もまた「いのち」ととらえていた生命観がうかがわれます。
明治を生きた仏教者・清沢満之師は、「いのち」について
生のみが我らにあらず 死もまた我らなり。
我らは生死を併有するものなり。
※(併有:ヘイユウ/合わせ持つの意)
0コメント